「メディテーション」(瞑想)とは?

「瞑想とは起きていることをはっきりと知ることです」ーティク・ナット・ハン

禅の言い回しで「不立文字」という言葉があります。
その意味は、文字/言葉ではものごとの本質を伝えることができないということ。

言葉は受け手の解釈によってその意味を大きく変えるし、また断片しか表すことができない。
いのち/体験は全体です。言葉は断片。だから、言葉は全体を表すことができず、言葉にした時点で、すでに断片であり、もはやそれではなくなってしまう。

「メディテーションとは何か」を言葉を使って表すのも同じようなものです。
その上で書きます。

坐って姿勢を整え(調身)、呼吸を整え(調息)、そして、心を整える(調心)。
つまり、瞑想という行為は静かに坐っていることだ、という理解が一般的だと思います。
静かに坐って、自分を見つめる。その行いによっていろんなことが明らかになってくる。
それがひとつの瞑想の形ですね。

そうして、今自分がここにいるということは、一体どういうことなのかをはっきりと観ようとします。
そうしてその結果、何が本当なのかを見破ること。
そうして、自分は丸出しのいのちそのまんまであることを知り、その尊さや壊れない喜びを体験します。

また、坐る瞑想にもいろんな形態があり、瞑想はとても実際的な側面も持っています。
例えば、自分は自分自身を条件でしばって苦しくしていないか、しているならどんな条件付けが在るのか(つまり、自分は?であるべきと縛っていたりしないか)、また、自分の中にあるいろんな反応の原因をみたりします。そうすることでどんどん解放されていく。
また時には、自分は何したいのか、自分にとっての幸せは本当はどういうことなのかを、納得が起きるまで判断なく考え抜き、気づいたりという事もします。

でも、坐ってなくても、いつでも瞑想になりえます。
坐っているのもそう、実は歩いている時も、ご飯を食べている時も、いつでもそう。
なぜなら、何をしていても、いつでもそこには生きているとう真理しかないのが現実だから。

手法はいくつかにわけら得ると思います。

(1)止の瞑想(シャマタ瞑想):何かの対象に意識を向け、それと一体化する方向に進む。
(2)観の瞑想(ヴィパッサナー):自分に意識を向け、判断/分析のない広い意識で観察する。
(3)分析瞑想:様々な事項に関して集中し、考え抜くこと。坐って哲学する。
(4)無概念の瞑想:何の概念なしにただ在る。

こうした手法をその場、時、その人の状態に合わせ、実践する。
結果は期待せず、自分を変えようともせず、ただただ実践します。
そうして、自分がどんどん変化していきます(変化は勝手に起きます。変化させるのではない)。

そして真理というのは、「自分」が知るのでは在りません。
あちらから自然とやってくる。

これについて、道元禅師の正法眼蔵- 「現成公案」からの一節を記します。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす
万法すすみて自己を修証するはさとりなり

(masaの意訳)
この自我としての「自分」が覚ろうとして、修行し、それがわかったというのは錯覚である。なぜなら、自我はいくらあがいてもそれ自体が概念という迷妄であるから。それはいのちの本当のところでない。だから、迷いである。
本当のところは、ものごとが真理を示し、この「自己」とは何かが示されることがおきる。そうならば、それは覚りである。

自分というのは、とても面白い存在です。

それに興味を持ち、積極的に関わり、自分にとっての真理をつかみ取ります。
瞑想はそういう意味で、積極的に自分のいのちを知り、自分が自由であることを知り、寄り添って、それを楽しみ、人生をいきいきと生きる状態になってしまうためのもの。
そこにある「いのち」に自然とぴたーっとひとつになり、そのいのちが生きるように無為自然に生きること。
自分を生きることを実践する本番。
それがマットの上であり、坐布の上であり、そして毎日の生活です。
瞑想は、生きていることの豊かさ、人生を本番で生きることのうれしさを教えてくれます。

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