「ただ在る」という絶対的な存在性

なんか最近、同じことばかり書いてる気がする。
でも、感じてることだから書きますね。許してくださいな。

こないだ鞍馬山に行きました。ヨガジェネTTと京都でのフルプラクティスシリーズの間の中休み日。

いつも新年には、祖母ゆかりの神社に初詣し、明治神宮でご祈願してもらい、そして、鞍馬寺に参ります。
いつものコース。

で、また参ってる途中で、ある覚醒が起きた。

歯がゆいことに、言葉にすると同じことなんです。
でも理解が明らかに違う。世界が違って見える。
なんでしょう、これは。深まってるということでしょうか。
いうならば、明らかにアタマの理解である知識から、存在全体にしみてる智慧になっているような感覚。

それはどんな感じかというと、人も物もただそこにあるという絶対的な存在を感じて、すごくうれしくなったんです。

真実はただそこにその人がいてくれるということ、そこにそれがあるということ。それ以上でもそれ以下でもない。

人は、その本当はそれ以上でもそれ以下でもないものに意味をつけて、何とかしようとする。
でも、意味をつけるということは、意味がなくなることによって生じるであろう不安や恐怖も同時に発生させている。

意味をつけないとやってらんないから意味をつけるんだろうけど、いらないんじゃないかと思うんですよ。
意味をつけなければ、何もなくなるものが無いから、不安もない。

さらには、意味をつけないこと、つまりは「あるがまま」それを観ることによって、そこには自分が作ったのではないもともとある絶対性が飛び込んでくる。
すごい安心感です。

「なんだ、ずっとあったんじゃないか!」って。
あれこれ考えてやってたけど、そんなの必要なかったんだなあって。

そんな感覚です。

“「ただ在る」という絶対的な存在性” へのコメントが 1 件あります。

  1. 酒井 陽子

    私は25年くらい前に、自己啓発セミナーに参加ました。
    いろいろなエクササイズを通して、少しずつ自分の鎧がはがれていき、
    「あるがままの自分でいいんだ」
    と頭で理解したのではなく、体感した・・・という経験をしました。
    その時、周りにいる見知らぬ人々が、まるで自分の大好きな友人や家族のように
    愛おしく思え、心がオープンになったのを憶えています。
    それ以来、それまで定期的に陥っていた自己嫌悪にさいなまれることが、すっかりなくなってしまいました。
    MASAさんのコラムを読み、その時のことを思い出しました。

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