一昨日、禅の接心会が終わり、出てきました。
道場のお寺から出てきたときは、何も変わらない普通の街並みが、とても久しぶりで、人や木や建物などうれしい存在感を醸し出していたのを鮮明にまだ覚えています。
接心会は厳しい修行です。一日8〜10時間ほど坐り、お師家様(和尚さん)との真理追究だけの真剣勝負のやり取りもあります。
終わった後の会食では、すごくやさしい顔になるお師家様やお弟子さん達も、接心会の間は夜叉のような形相で、真実を覚らせようとします。
それは、この接心会で目指すものにすごく大切なことが凝縮されているから。
だから、その厳しさも、何を言われても、それは真理の追求をし、それをつかみ取ってほしいという紛れもない愛情からなんだとすごく信頼しています。
その分、あの場が厳しくて、マインドがすごく抵抗してしまうけど、ボクにとっては、とても大切でうれしい場なのです。
今回は、また引き続き「公案」と呼ばれる修行を続けています。
公案とは思考を通してでは、わからない摩訶不思議な問いをもらい、それにひとつになった状態をめざして坐禅します。
その答えは、覚醒した状態じゃないと浮かんでこない。
そして、その覚醒した状態になって浮かんだ答えそれそのものになって、一対一のお師家様との真剣勝負の時間(これを独参といいます)に、お師家様にそれを体現します。
頭で考えてロジック立てて説明をしても、「それ」に「なって」ないので、「そんなものは屁理屈だ!」と追い返されてしまいます。
そんな修行を今回もまた続け、理解が深まっていきました。
たくさんあったのですが、その中でも一番わかったことは(正確には、頭ではわかっていたけど、叡智が働いてその理解が自分の深いところで起きた感じ)、本当に人間は全てのものに分別をつけて生きている。
思い込みを全てのものに当てはめて生きている。それが「真実」から自分を遠ざけているということ。
その思い込みはもちろん自分にも当てはめています。
それで、一番近いはずの自分から自分を遠ざけてしまっている。
そんな状態で、生きている本当の意味や喜びを感じて生きることは難しいでしょう。
だから、一挙一足、全ての行動に全身全霊を傾けて行います。
そこに分別や思い込みが入る隙はありません。
そうして、その自分自身にぴたーっとひとつである時、生きていることがわかります。
抽象的ですがそうとしか言いようがない。
あなたは「今」に生きています。その素晴らしい事実に触れる感じでしょうか。
考えや思い込みは過去の名残です。
それを当てはめてものごとを見ている時点で過去に生きているのです。
もちろん、過去の体験から来る記憶に基づく想定である「未来」に生きていることも同じこと。
そんなものは存在しないのですから、生きてる感覚が薄くなるのは明白ですよね。
そして、いまに生きる時、そこに「自分」は介在しないのです。
何かに没頭している時、そこに「自分」がいないというのは何となくわかっていただけるかと思いますが、その「自分」という感覚は思い込みの集大成です。
そして前述したように、思い込みの集大成であるゆえに存在しない。
無我の境地です。
自我は周りと自分を分け隔てます。そのような分別を起こす。
だけど無我であることがわかる時に、自分が全てであることがわかります。
それはドライだけど、とてもゆたかないのちの世界です。
だから、ものごとに全身全霊、ぴたーっとひとつになって生きることは、とても大切なことですね。
そんなことをこれからも自分が実践して、伝えていきたいなと思います。
すごく今回もいい時間でした。
「禅」。本当にすばらしいものです。









